気持ちの整理

子どもの頃、両親が離婚した。

私と弟は母に引き取られ、数年後、母が再婚しもう1人弟がいる。

離婚も再婚もまだ小学生の頃だったから、進学して友人が増えるにつれて、私のいまの両親が再婚である、なんてことを知る人は殆どいない。私もわざわざ言わなかった(小学生の頃、苗字が変わった際に揶揄われた思い出もあるからだ)

 

先日、20年ほど会っていない実父が亡くなったと連絡があった。父方の祖母から連絡があり、葬式に出るように促されて了承はしたものの、すごく憂鬱だ。

 

憂鬱な理由は至極明快。

実父は暴力を振るう人だった。

実祖母は、私を贔屓して弟と母を蔑ろにする人だった。

実父も、実祖母も、私の中ではもう他人と同じ括りの、会いたくない人だからだ。

 

私の幼い頃の記憶では、実父が母に手をあげて、深夜母方の祖父母宅へ逃げたことがある。泣きながら、私たち姉弟に謝りながら車を運転する母の後ろ姿が今も目に焼きついている。

しかし一方で、子どもには殆ど手をあげなかったらしい。私の記憶には、確かに実父に殴られたりした記憶はない。もしかしたら弟は殴られていたかもしれないが、定かではない。

いずれにせよ、母を苦しめた人だという認識だった。

 

離婚が成立してから数年、私が中学に上がる寸前まで、実父とは年に2回、誕生日に合わせて会うようになっていた。

小学高学年の誕生日、私は当時まだ珍しかった携帯電話を買ってもらった。とはいえ、私がほしいと言ったわけではなかった。女の子だから、危ないから、そんな理由を言われた記憶がある。

ただ、子どもというのは現金なもので、買ってもらったことは嬉しかったし、中学に上がれば周りにも持っている子がいて、色々と遊び尽くした。携帯電話でネットサーフィンをしているうちに寝落ちして、パケット料が10万円ぐらいになったこともある。

実父はその携帯電話の使用料も全て払ってくれていた。

 

しかし、弟には携帯電話はなかった。

私が買ってもらった年齢になっても、幼いからとかなんとか、理由をつけて買わぬまま、いつしか実父とは疎遠になった。

今思えば、私と弟の実父方における待遇の差は明白な格差がある。

 

子ども心に養育費のことを調べたのはたぶんこの辺りの時期だったと思う。

後から聞いた話では、養育費は一切払われておらず、私の携帯電話の使用料だけを毎月払っていただけらしい。それも中学生のうちに母が支払うように切り替えたようだ。

 

実祖母は、昔ながらの昭和の奥様というイメージだ。

女学校出身で、マナーに厳しく、私が幼い当時はまだ若々しかった。

故に、なぜか、私と弟は実祖母を「おかあさん」と呼ぶように言われていた。

母のことは「ママ」だ。

 

なんとも奇妙な感じが否めない。

当時、母親じゃないのに「おかあさん」と呼ばせる意図を、幼い私は知らなかった。

 

土日仕事に行っている母の代わりに、実祖母は本当によく私を可愛がってくれた。

あちこちに連れ出していろんな景色を見せてくれたし、マナーも叩き込んでくれた。おかげで箸の持ち方が綺麗だと言われる。

可愛い可愛い蝶よ花よと育てられたおかげで自己肯定感は強くなったと思う。

出かける際には当然、私は実祖母を「おかあさん」と呼ぶ。はたから見れば仲睦まじい親子だったろう。

 

一方で、弟のことを、実祖母はあまり可愛がっていなかった。

誰にでも笑顔で懐く私と、人見知りの弟。

実祖母に対しても泣いていたらしい。

初孫の私と、二番目の弟。

自分にそっくりな女の子の私と、母に似ている弟。

思い返せば、休日のお出かけも弟がいないことは多かった。箸の持ち方なんて未だにひどくユニークで、真似できないスタイルを確立している。

これらはあくまでも想像だが、実祖母にとって弟は母との繋がりが濃いから、あまり可愛がらなかったのだろう。

 

実祖母をおかあさん、と呼ぶ異常性を、小学校高学年の頃には自覚していた。

中学に上がる頃には実父と疎遠になるに連れて実祖母との繋がりも薄くなっていき、おかあさんと呼ぶ機会すら失われていった。

 

高校入学の際に、母は「育ててもらったのだから挨拶ぐらいしないとね」と義理立てて、実祖母宅へ私を連れていった。

記憶の中よりもずっと年老いた実祖母を前に、ずっとおかあさんと呼んでいたから今更おばあちゃんと呼ぶには躊躇いがあり、おかあさんと呼んだ記憶はある。嬉しそうに私の制服姿を見ていたように思う。

けれど違和感と異常性とに苛まれて、私は早くその場を後にしたかった。当時15才、多感な時期だ。離婚して数年会っていない実父の実家になんてどんな顔で行けばいいのやら。

 

ようやく開放されて安堵したのも覚えている。その日以降、私は直接、実祖母に会ったことはない。記憶の限りでは、少なくとも、私から自発的に会いたい人ではない。

 

そんなある日、高校を卒業したあとか、成人してからか、私はとある事実を知る。

離婚成立してから、実祖母は「【私】を養子に迎えたい」と母に持ちかけた、という事実を。

 

私は自他共に認めるブラコンだ。弟はもちろん、異父弟のことも大好きだ。

特に弟は、私が自我を持った時から一緒にいる。年齢が近いこともあって毎日一緒に遊んでいた。虐められていたときは勇んでその間に入っていったこともある。大切な大切な、私の弟だ。

 

その弟と私を切り離して、“私だけを”養子に迎えたい。

 

実祖母は何度か母に対してそう願っていたらしい。

 

おかあさんと呼ばせていた理由が分かって嫌悪感が迫り上がった瞬間だった。

同時に、ますます、この人たちと関わりたくない、と思った瞬間でもあった。

 

再婚した後も、私たちは決して裕福な暮らしではなかった。父の借金もあった。

離婚が成立した頃は言わずもがな。シングルマザーの母が稼げる額なんて知れている。

実父は会社を経営していたためそれなりに余裕のある暮らしができていたらしい。

母は何度か私を養子に出したほうがいいのではないかと悩んだそうだ。

 

自慢になるが、私はそこそこ頭のいい子どもだった。成績はもちろんのこと、内申点も良かった。高校は進学校。将来に希望しかない15才だ。

 

これから塾に通わせないといけないかもしれない。大学は幾らかかるのか。払えるのか、いや、払えないかもしれない。

弟も、数年後には高校生になる。異父弟は小学生だ。この先もっとお金が必要になる。

母は、きっと、高校生になった私を見て、養子の話を改めて考えたのだと思う。

 

それから、私は色々やらかして母に迷惑ばかりかけるようになるが、ここでは割愛する。

こんなダメな娘を見捨てず育ててくれて本当にありがとう、ママ。

 

さて、話を戻そう。

実父の葬式の知らせは、何故か、私のスマホに実祖母から電話がかかってきた。

見知らぬ電話番号だったが不在もあったため、荷物運びのドライバーさんか何かかと思い、軽い気持ちでとったのだ。

「もしもし」と言った私に対し、妙に甘えた声音で、「おかあさんだよ、わかる?」と、第一声目。

刹那、私は電源を切りそうになった。

いい大人だからと堪えて「はい、わかります」と応え、そこから軽い近況を聞かれるがまま答えた。しかし、そこで問われる内容は当然ながら私のことだけ。弟のことも、母のことも、何一つ聞かれなかった。それが嫌で、ムカついて、私から近況を伝えた。

あちらは興味なかったのだろう。

すぐ本題に入り、齎された「実父死亡、葬式の日程」衝撃は確かに大きかった。しかし、実感がない。私の中ではもう他人のカテゴリーにいる人が死んだのだから当然なのかもしれない。

 

ひとしきり葬式の日程など打ち合わせをして、やがて実祖母は「今はもうあの大きな家にひとりぼっちなの」と寂しそうに呟き、「【私】一緒に暮らさない?ね、いいでしょう?」と、宣った。

 

眩暈がした。

どの口が言っているんだ、とさえ思った。

 

難しいよ、と答えて、葬式には母と弟も行くように連絡する、と話を逸らした。

 

そうしたら

「そう、分かった。ママと弟には連絡しないから」

「【私】に会えるのが楽しみ」

「一緒に暮らしましょう、あなたもそれが良いと思うわ」

「幼い頃の写真を見て何度も連絡しようと思っていたの。【私】にもっと早く連絡して会えばよかったわ」

云々。

 

そこに私の気持ちは一切ない。

私が、嫌っている、なんて、想像もしていないことがわかる言葉の数々。

ひとを嫌うってなかなか出来ないことだが、私は、この人が嫌いだ、と、その電話で思ってしまった。

 

ましてや実父は、その後再婚して、実祖母と後妻と子どもと数年暮らしていたと聞いている(その後また離婚したらしい)

 

私と弟もたしかに実子だけれど、戸籍上は全くの他人になっている。

 

葬式にはそちらのお子さんたちも来るのではないだろうか?

まさか呼んでない、なんてことはないと思うが……とにかく憂鬱である。

 

葬式会場で母や弟を蔑ろにされたら態度や顔に出てしまうだろうから、ふたりには来なくても良いよと言ってある。私をご所望なのだから私が行けば済む話だ。

憂鬱だが、仕方ない。お姉ちゃんの勤めと思って頑張ってこよう。

 

気持ちの整理のために書き始めたことだが、振り返ってみて、私はやっぱり実祖母が苦手、いや、嫌いだ。できることなら会いたくない。

会いたくないが、これを書いているうちに夜が明けてしまった。

誰にも言えなかった、言う必要もなかったマイナスな言葉を整理できて少しスッキリした。

礼服に着替えるまで少しだけ仮眠しよう。